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学長からのメッセージ

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学長通信 No.7

学長通信No.7(2010年3月4日)

木を育てる、人を育てる


最近、奈良の若い友人に誘われ、吉野の材木屋さんに行ってきた。そこには見事な木材がおかれていた。20メーターほどの見事な丸太もあった。ご主人の話を伺うと、今、材木屋は大変な不況なのだそうだ。店をたたむことも考えているという。色々見せて頂いた結果、栂(トガ)の板を一枚買うことにした。かんなをかけて仕上げれば、立派なテーブルになるだろう。仕上がりが楽しみである。

奈良の吉野は杉で有名である。以前、吉野杉の育て方について専門家の話を聞いたことがある。吉野杉は密植で育て、30年、50年で間伐してだんだん、良いものを残し、大きくしていくということである。良い木を育てるためには、枝打ちなどずいぶんの手間をかけるという。一方、間伐材は、かつては、それぞれの大きさによって工事用の丸太など色々な用途に使われていた。しかし、近年間伐材の使い道が無く、また、木材としては海外からの輸入が増え、切り出す工賃と売値とが逆転して、林業が衰退し、山が荒れているということである。

木材は、植えてから使えるようになるまで、おそらく最低でも50年はかかるのであろう。つまり、植えた人間の孫の時代でないと使えないことになる。また、京都の清水寺の舞台を支える杉は、常に次の修復のための木を、北山に植えているという。こんなに気の長い産業が他にあるのだろうか。

薬師寺の修復などで有名な棟梁、西岡常一さんの著書で「木のいのち、木のこころ」(新潮文庫)というものがある。棟梁は、聞き語りの形で、「木は切られるまで生きてきた年数、その後、材として生きることができる。薬師寺では、樹齢2500年を越える檜が使われていて、その材は2500年持たせないかん」といっている。

ところで、鳩山政権の新成長戦略(2009年12月30日)では、地域活性化戦略のなかで、2020年までの目標として、「食糧自給率50%」と共に、「木材自給率50%以上」が、明記されている。グローバリズムの横行する中、一方ではローカリズムも重要であるという認識が、この政策の根拠にあるのだろう。私は、グローバリズムが文明なら、ローカリズムは文化に対応するのではないかと考えている。木材の文化は、ある意味では、日本の文化でもある。山が荒れることは、日本の文化が荒れていくことでもある。

木を育てることが、実に気の長い話であることは既に書いた。それでは、私たちが本業とする、人を育てることはどうなのだろうか。幕末、欧米列強がアジア進出を狙っていた中、日本で独自の明治維新が何とか達成されたのは、江戸時代の教育制度が優れていて、時代を担える優れた人たちがいたからだという話がある。江戸の町では、武士だけではなく、多くの子供たちが寺子屋などで学び、識字率もきわめて高かったという。江戸は当時の世界の都市の中でも、きわめて高い文化を誇っていた。

大学における教育の成果は、卒業時に見えるものもあるだろうが、大部分は、もっと後にならないと見えないものではないだろうか。人の命は、木ほど長くはない。従って、50年後とか100年後を待つわけではない。しかし、やはり、10年、20年後に、やっとその成果の大部分が見えるようになるのではないだろうか。しかもそれは、突然見えるのではなく、それまでの、本人の長い努力の継続の結果、見えるようになるのだろう。だとすると、教育として行うべきことは何なのだろうか。

東北大の大隅典子教授の訳した本に、「心を生み出す遺伝子(ゲアリー・マーカス著),岩波書店」というものがある。その中で、「人に魚を与えれば一日食べていける。人に魚釣りを教えれば、その後一生食べていけるだろう」という中国のことわざが紹介されている。これは教育の本質をあらわしていると思う。ただ、ここでいう、「魚釣り」が、単に技術を意味するととらえるのは間違っているだろう。未来を生きていくための、基本的な作法と私はとらえたい。その意味では、人を育てることも、また、気の長い話であると思う。

この部分に関連して、最近、文部科学省が大学設置基準を改正し、大学や短大の教育課程で職業教育(キャリアガイダンス)を義務化するというニュースが報じられた。学生の就職難、あるいは離職率の高さへの対応策と考えられるが、これが単に、魚の食べ方を教えるようなものであるなら、意味は無かろう。職業に就くとはどういう意味か、たとえば、研究をすることと、研究者になることとの違いは何か、を学生自身が考え、理解しなければいけない。

我が家に、奈良の元興寺の住職辻村泰然師の書いた「忘指知月」という掛け軸がある。もともとは、大蔵経という古い経文にある言葉だと聞く。この言葉は芸事を学ぶにも使われる言葉で、事の本質をみずから学び取れ、という意味だそうだ。情報を理解し記憶することばかりではなく、自らが考えて、その結果を知識として増やしていく。このことが、新しい知を創造することにつながるのであろう。発見とは、誰もが見ているもののなかに、誰もが見つけなかったものを見いだすことだという話がある。これまでの日本はキャッチアップ型の文化(文明)であったといわれる。それを突破し、世界の先端に立つには、自ら考えていく能力が必要になるのだろう。そのためには、どんな教育が必要なのだろうか。少なくとも、学生が自分で考える時間を与えることは必要なのであろう。また、当然ながら、考えることを誘導する、あるいは、強制することもまた、必要であろう。私は、教育とは、学生が自らあるものになる(知ることによって変わっていく)ことを待つことであると、言ってきた。単なる情報や技術を教え込むだけでは、これは達成されないであろう。ただし、教育が気の長い話であるから、また、その成果はすぐには分からないからといって、何もしなくて良いということにはならない。むしろ、学生の考えたプロセスを、理解し評価する過程は、学生個々に対応して行うことが必要で、ずっと手間がかかることであろう。教育のシステムに十全はない。また、私たちが、月を指し示す役割であることには違いはない。

その目的を意識しつつ、システムの改良を進めていきたい。


まもなく、修了式である。私たちは、どんな木を、いや、どんな人を育ててきたのだろうか。

良い木を育て、山を美しくするには、木の力を信じて、育つに良い環境を作ることが必要であり、また、木の生きる道を見つけてやることが必要である。人を育てるためには、その生きる道と楽しい未来を見せつつ、人の力を信じ、自ら学ぶ環境を作っていくことが必要である。私たち、あるいは、今の日本の高等教育制度や政策は、学生諸君に未来への夢を見せているのだろうか。原点にかえって考えたい。



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