医療現場での異色キャリアを発揮し、医工連携研究を創出
柔軟な思考と生き方を大切に
湊小太郎名誉教授は、令和8年春の瑞宝中綬章を受章する栄に浴しました。瑞宝中綬章は公務等に長年にわたり従事し、成績を挙げた方に授与される勲章です。湊名誉教授は大学で専攻した電気工学を大学病院の医療現場で生かし、画像検査の情報化に貢献したほか、奈良先端科学技術大学院大学でもその経験を発揮。医療と情報科学、バイオサイエンスを融合する先駆けの研究を立ち上げ、情報科学研究科長としても尽力しました。企業勤務も経験するなど、多彩な経歴を歩んできました。学生には「あまり自分探しにこだわって煮詰まらないように」とアドバイスする湊名誉教授に、柔軟な思考と生き方の大切さなどを聞きました。
京都大学医学部附属病院から誘われ、医用画像処理のプロフェッショナルに
――1979年から97年まで京都大学医学部附属病院、同年から2013年まで奈良先端大と、異なる分野に長年在職しました。叙勲を授かり、認められたことへの思いは。
湊名誉教授 全く無縁だと思っていたので、とてもありがたく思います。大学病院では工学出身として、コンピューター断層撮影装置(CT)をはじめ画像検査装置が入り始めたころから画像処理に携わり、病院の情報化も手がけました。京都大学工学部出身で、医療の資格を持たない私が18年間も医学部附属病院にいたのは、かなり珍しいケースだったと思います。奈良先端大に教授として赴任したのは49歳になってからです。工学と医療の架け橋になるような研究に取り組みました。受章できたのは34年間無難に大学教員を勤め上げられたから、と理解しています。
――大学病院に勤めていた異色のキャリアが目を引きます。
湊名誉教授 工学部では電気系学科で、研究室は桑原道義教授(当時)の制御工学でした。実は、修士を卒業後に1年ほど三菱電機に就職もしていました。整流器を開発していたのですが、自分には合わないと感じ、復学したのです。桑原先生は医工連携の草分けで、京大病院循環器内科の平川先生と医用電子工学分野の共同研究をしていました。それが縁で、放射性同位元素による検査である核医学の臨床データの解析に関わるテーマで80年に工学博士号を取得しました。その前年に、京大病院放射線核医学科の鳥塚先生から助手として呼んでいただいていたのです。第二次オイルショックのころで就職難の時代でした。まだMRI(磁気共鳴断層撮影装置)はありませんでしたが、京大病院が画像検査装置を入れ始めたから工学が分かる人が欲しいと誘われました。
――どのような役割を果たしたのですか。
湊名誉教授 就職したちょうどそのころCTが普及し、実用化が始まった核医学画像やPET(陽電子放出断層撮影)、SPECT(単一光子放射断層撮影)の医用画像処理に携わりました。出力される何枚もの断層像から立体画像を合成して、楽しく過ごしていました。面白かったのは医師の反応です。外科医は手術で臓器がどんな様子になっているのか知りたいので、画像を1枚ずつ見るより、向きも変えられる立体画像を喜んでくれました。一方で、放射線科医は断層画像から腫瘍の有無を診断することが中心のため、必ずしも立体画像を必要とはしませんでした。
4年後に電算化を担当する医療情報部の助教授へ異動し、病院情報システムを開発・運用しました。実際は、システム開発企業と臨床現場との仕様調整の仕事が多く、医師や看護師にどうすれば端末のキーボードをたたいてもらえるかということから始まりました。かたわら、当時はフィルムで運用されていた医用画像をデジタル化して「フィルムレス病院」を目指す研究開発にも従事しました。大学病院とは興味深い世界で、さまざまな学問領域が関わります。医学から工学、法学、経済学、心理学と、世間の縮図が病院の中にあるような感じでした。
大学ではバイオと情報の先行的な融合研究モデルに挑戦
――奈良先端大に転じた経緯と、取り組んだ研究テーマは。
湊名誉教授 奈良先端大に千原國宏教授(当時)がおられて、「奈良に来ないか」と運良くお声がけいただきました。大学病院の職場は周りが基本的に医師で、教員も医師ばかりです。なかなか居づらく感じていたので、喜んで転職しました。研究者としての基盤は工学ですが、臨床に知り合いが多いのが強みといえば強みです。その中間を研究テーマにしたいと考えました。医療情報学と生体医工学を専門に、研究室を「生命機能計測学」としました。人間なり細胞なり、その状態を画像などで測ることをテーマにしようと、学生にもそのようなテーマをお願いしました。菅幹生さん(現千葉大学)とはVR(バーチャル・リアリティ)の医療応用、佐藤哲大さん(現群馬県立県民健康科学大学)とはMRIの拡散強調画像、准教授(当時)の杉浦忠男さん(現崇城大学)とは顕微鏡(光ピンセット)で細胞レベルの機能計測、そして中尾恵さん(現京都大学)とは医用画像の3次元表示システムの開発を手がけました。
――研究体制が試行錯誤で再編されていた開学初期から、どのような動きに身を投じてきましたか。
2002年にはバイオと情報の融合を目指し、情報生命科学専攻が情報科学研究科に増設されました。情報からはデータベースの植村俊亮先生と私、バイオから小笠原直毅先生(元学長)と箱嶋敏雄先生が異動し、その後に2講座が増設され石井信先生と金谷重彦先生の6講座で運用しました。情報とバイオから学生を受け入れ、多様性に富んだ専攻でした。知らない世界に飛び込んでくる、みんな面白い方ばかりです。情報はインターネットとVR、バイオにしても遺伝子ゲノムや植物の分子生物学の研究であり、大きな大学ではマイナーであっても、奈良先端大ではそれらが集まればメジャーになれる。そういう考えで設けられ、面白い切り口でした。奈良先端大自体が、もともとユニークな大学ですから。互いに専門特有の言葉が異なりみんな苦労もしましたが、もっとも楽しかった思い出です。情報生命科学専攻は、まさに融合の先行モデルでした。
ただ、融合分野の確立した概念を創造できないうちにいくつかの事情が重なって11年に事実上、解消しました。時代的にすこし早過ぎたのかもしれません。私は11年に情報科学研究科長に就き、13年に退任しました。しかし、18年に情報科学、バイオサイエンス、物質創成科学の3研究科が統合し1研究科体制へ再編を遂げました。奈良県立医科大学と09年に結んだ医工連携の包括協定も、昔から細々と続けてきた結実です。融合の実現は、感慨深いものがあります。
研究者に必要な「運鈍根」、雑用も必ず役立つ
――研究者として歩んできた道を振り返ると。
湊名誉教授 私は1947年生まれの団塊世代です。出生数は260万人を超え、どこへ行っても、競争相手が多い。いつでもどこでも、私の代わりがいる世代です。研究一筋にこだわっても誰かに取って代わられるだけで、生きにくい。そこそこのところでいい加減に、よくいえば柔軟に対処せざるをえませんでした。研究者は「運鈍根(うん=運のよさ、どん=粘り強さ、こん=根気)」が大切で、『しつこさ』が最も重要です。ただ、私は団塊世代であり、あまりこだわりすぎないよう生きてきたので、残念ながらしつこさが不足していました。電気工学のエンジニアになるはずが病院の助手から始まって、最終的に奈良先端大へ奉職できたのは本当に好運でした。
――後に続く研究者や学生に伝えたい思いは。
湊名誉教授 奈良先端大は実験的であり、とんがったこともできる非常に面白い大学です。学生も、いろいろなところから飛び込んで来てくれるとうれしいですね。私はできるだけ臨床医学などの現場を観察・経験しながら、たまたま出会ったテーマも大切に研究課題を見つけました。教育も研究も雑用も、みんなどこかで役立ちます。なので、あまり自分探しにこだわって煮詰まらないように、とアドバイスしていました。大きな研究成果を上げた方々の話を聞くと、必ずしも同じ道一筋というわけではなく、何かのきっかけに寄り道をした際に成果が生まれたという事も多いようです。「根拠のない自信」も大切で、大概は付き合っているうちに楽しくなります。「いや」なことはしなくていい。「好き」はなかなかわからないが「嫌い」はすぐ分かる。「嫌い」と感じたら、ともかく全力で逃げることです。
湊 小太郎名誉教授経歴
1979年 京都大学医学部附属病院助手
1980年 京都大学大学院博士取得
1983年 京都大学医学部附属病院助教授
1997年 奈良先端大情報科学センター教授
2001年 同情報科学研究科教授
2011年 同情報科学研究科長
2013年 同名誉教授

