~広報誌「せんたん」から~
[2012年9月号]
物質創成科学研究科 グリーンバイオナノ研究室 細川陽一郎特任准教授
バイオ研究の強力なツール
生物は自然環境の変化に適応して生き抜く能力を持っている。たとえば植物は、光合成に必要な太陽光に向かうほか、湿度や温度の違い、重力の方向などさまざまな環境の変化 を敏感に察知し、状況に応じて体勢を立て直している。
こうした生物の精緻で巧妙な環境応答の仕組みを知り、工学に役立てることはできないか。強力で微細な加工ができるレーザー光を使い、細胞一個のレベルで操作する技術を開 発、駆使しているのが細川研究室だ。
「レーザー光を使った計測技術によって生 物に備わる環境感覚を学び、生物が培ってきた生存のための技術や原理を応用して、太陽 電池や省エネデバイスなど環境を考慮した工学技術に還元することができないかと考えています」と細川特任准教授は説明する。
この研究室には、「フェムト秒レーザー」と 呼ばれるレーザー発振装置(超短パルスレー ザー)があり、加工を施せるほどの強力なフェ ムト秒レーザーをバイオを対象にした分野で利用できる施設は全国でもまれである。この 装置ではレーザー光を10-100フェムト(千兆 分の1)秒という超短時間に照射する。この 結果、熱発生よりも遙かに短い時間に光エネルギーをミクロな範囲に集中させることができ、針を刺すように周囲に熱の影響を与えず に穴を開けたり、1細胞に衝撃を付荷したり することができる。
レーザーを研究してきた工学畑の細川特任准教授が、「バイオ研究に使える」と挑んだのは慧眼だった。顕微鏡の培養細胞の試料に当てることで、数十ミクロンの範囲で爆発のような現象を起こし、その衝撃波により、細胞 群に直接触れず、細胞を壊さずに引きはがす技術の開発に世界で初めて成功した。集光点の径が約1ミクロンに対し、細胞の幅が約10ミクロンだから、細胞1個単位で細胞そのものやその近傍にねらい打ちできる。バイオ研 究の画期的なツールとしての応用ができるよ うになった。
細胞の接着力が測定できた
レーザー実験室は、3つの部屋が連動して いて中央の部屋にフェムトレーザー装置が陣 取り、両脇の部屋にはフェムト秒レーザー光 照射による反応を測定する共焦点蛍光観察システム、タイムラプスシステム、光ピンセッ トシステム、原子間力顕微鏡(AFM)などを装 備した4種類の顕微鏡システムが据えられている。大がかりな装置は微細な世界を扱うだけにデリケートで、停電などあると調整に苦 労する、という。
ここで生まれた最近の大きな成果を紹介し よう。
多細胞生物の細胞同士が接着する強さを初めて定量的に測定できたことだ。ひとつの細 胞は小さく、構造は脆弱なのに、あまりにも 強く結合しているので、これまで細胞を無傷 で引きはがすことはできなかった。そこで細 胞培養液にフェムト秒レーザーを照射して衝 撃波を起こして細胞群を分離させるとともに、その時の衝撃波の強さを測定する技術を開発。 こうして得たデータを解析して、接着する力 を力学計算できるようにした。具体的には、生体の表面で異物の侵入を防ぐ上皮細胞同士の強固な接着力は、白血球が血管外に出ようとして血管の内皮にくっつく力の10倍にも上ることがわかった。
この定量化により、さまざまな形の細胞群の接着力を個別に数値データであらわして定量化でき、生命の営みを統合的に理解できる。 医学面では、がん細胞の転移のさいの接着力など臨床に役立つデータが得られる。この成果は高く評価され、米科学アカデミー紀要に掲載された。
実は、この研究の過程にはチャレンジがあった。衝撃波の力は、原子間力顕微鏡につけ たナノ(10億分の1)メートル単位の微細針 のかすかな動きで測定するのだが、それは専門家が「衝撃波により顕微鏡が壊れるかもしれない」と恐れるほどの大胆な試みだった。
この成果は近畿大学医学部伊藤彰彦教授らとの共同研究によるが、このほかにも20-30 のテーマで、大学、研究機関と共同研究を行 っている。それらの融合研究の一端が披露さ れたのが、細川特任准教授が4月に開いた 「超短パルスレーザー細胞プロセス研究会」 だ。発表された研究成果のいくつかを上げる と、▽ゼブラフィッシュやニワトリなどの脊 椎動物の初期胚にレーザーを集光してDNA などのバイオ分子を導入する手法を開発▽植 物の葉の気孔のそばの細胞を傷つけ、気孔を 開かせることに成功▽植物の生長点に穴を開 けて、植物ホルモンの供給を断つ方法で、茎 の伸長のメカニズムを研究―など。さまざま な最先端分野との融合研究が進んでいること がわかる。
「光合成で言えば、葉緑体は処理の限界を超える光が入ってきたら有害なので細胞の縁に逃げる。一方で、光がとどかない暗所では、 茎を伸ばして明所に葉を伸ばそうとする。こ れらも植物の光応答で、光合成を最適化する ために、いろいろな補助機能が働いている。生物の機能を全体的に捉えると実に多様です。 その知見を産業に結び付けようと思ったら、工学系の研究者たちが、それらの現象を理解し、いい所取りをしてデバイス(装置)やソフトウェアの開発に生かすことでしょう」と強 調した。
異分野との相互作用を期待
ところで、細川特任准教授は、応用物理の出身で、ものづくりが好きであった。学生の時は、有機分子の光応答のレーザー計測装置 を開発し、そのメカニズムを解明する研究を 手掛けていた。その後、レーザー装置の発達 とともに、「生体材料も有機分子の仲間とい う拡大解釈」でバイオの分野に踏み込んだ。 レーザーナノ化学研究の権威であり、学生時代からの恩師である増原宏本学特任教授の研究室から独立し、平成23年に独立研究者として同研究室を開設した。
そのような物理、化学、生物に横断した経 験は学生の指導にも生かされる。研究室の学 生の出身学部は、薬学、農学など生物系から 化学工学、電気工学、情報科学とすべて異な るだけに、学生に対しては「レーザーを使った研究なら、自分の興味に合わせてテーマを 選びなさい」と声をかけ、異分野との相互作 用を期待する。
博士後期課程3年の飯野敬矩さんは、細川 特任准教授とともに、細胞同士の接着力を測 定する研究を手掛けてきた。「接着力を数値 として出せましたが、そのデータをもとに生 物学的な現象としての意義を解明していきた い。たとえば、生体内の部位による接着力の 違いと、炎症など細胞の状態との関連といっ た医科学系のテーマで、その基礎固めをして います」と抱負を語る。飯野さんは就職の経 験があるが「研究に携わっていきたい。良い データが出て、このデータはいま僕しか知ら ないと思えたときは楽しい。本学は社会人に も門戸が開かれているし、博士課程の学生に 対しては経済的な支援もあることがいいと思 います」と話す。
博士前期課程2年の熊野悟さんは化学工学 の専攻だったが、幅広い知識を身につけたい と本学を選んだ。「細川先生のガイダンスが 面白かったので全く知らなかったレーザーの 研究に取り組んでいます。レーザーの衝撃波 で過冷却水を凍らせられないかと研究してい て、何とか氷はできましたが、そのメカニズムを解明するのがこれからの課題です。周囲に意欲的な人が多いのが励みになります」と張り切る。
博士前期課程1年の新屋龍太郎さんは実験装置を作っている段階だ。「植物の細胞は内 部の圧力が高く、レーザーで傷をつけても外 部からDNAが導入できないので、外部から10気圧もの高圧をかけられる装置を作って、 レーザーにより1細胞にDNAを導入する新 しい方法を開発しようとしています」という。 薬学部で動物の光に対する免疫反応の研究を していたが、本学で更に光に特化した技術に挑みたいと考え、この未知の分野に飛び込んだ。まだ研究を始めて間もないが、「予想外 の結果が出るのも面白さのひとつと思えるよ うになりました」と振り返る。ランニングが 好きで毎日10キロ走り、フルマラソンの出場も計画していて、「緑が多いキャンパスや 周辺の環境は練習に最適」と学生生活を楽しんでいる。